星野道夫と熊のこと
彼の写真を初めて見たとき、これは動く映像ではないのか?と驚いた。
間違いなくそれは2次元の紙に印刷された、静止画なのだが。
どう見ても、彼の写真は動画なのだった。
この思いは、2度経験したことがある。
あと一人の写真家は、黒部川で有名な志水哲也の、夜明けの滝の写真である。
今にも冷たい水しぶきがかかってきそうな、登山家ならではの臨場感溢れる素晴らしい一枚だ。
若き日の憧れの人でもあった。彼の単独での黒部川探索記を、どんな思いで当時読んでいたことか。
星野道夫の著作の短編に、熊よ、というものがある。
これを読んだとき、ああ同じ感情だ、と心震えた。
普段の生活のなかで、ふと熊を思う。
今この時、熊は木をまたいでいたりするんだろうな、と思い愛おしくなる。
私は、全く同じ感情を持っていた。
いつかテレビで見た、山肌を一頭の熊が登っていく場面、頭から離れなかった。
そうして同じようにふと、ああ熊はあんなふうに一頭で、今も山を歩いているんだな、そう思っては感慨にふけることが、なぜか多かったのだった。
それは、孤独、ということすらおそらく知らずにただ、己の命を生きている。
ただ、今を生きている。
与えられた命の営みを、淡々と、行っているに過ぎないんだろう。
それは今日、私の大事な花をむさぼり食っていた芋虫だって同じことだが、大きさ、というものが、あるいは、眼差し、といったものが、やはり人間にある感傷を持たせる、ということだろう。
芋虫の眼差しは残念ながら見えない。
初めて谷川岳に登ったのは9月だった。
小雨が降り、谷沿いの道は小川のようだったが、なにしろ怖いということを知らない。
勢いに任せて登っていく。
辺りは霧が立ち込め、真っ白。
自分の手元がやっと見えるかといった具合だった。
水音が聞こえてきた。
聞こえる方に歩いていく。
どうやらマチガ沢の滝のようだ。
それはすぐそこに在るのだが、白い霧で全く見えない。
その時、言葉で言い表せない不思議な感情を味わった。後にも先にも、あのような感情は知らない。
これだこれだ、これなんだ私がほしいのは。
そう思ったことだけはしっかりと覚えている。
その場面のなにが、欲しかった、のか私には今もってわからない。
ただ私と、霧と、滝と、それだけが、そこには在った。
星野道夫がカリブーの群れの中に佇む時、それに似た、そしてもっと深遠な、
永遠な感慨に浸っていたのだろうか。