社会性
子供時代は学校
青年時代は会社
老年時代はデイサービス
こんなものだろうか
いつから?
いつからこんなふうになったのだろうか
わたしの考えすぎだろうか
学校へ行かない子供が問題視されると同じように、デイサービスを拒否する老人は問題視される
なぜなんだろう
そんな世の中に、いつからなったんだろう
私の祖母は、私の前でも決して肌を見せなかった。
入浴時に声でもかけようものなら、大変な剣幕であった。
今、人前で裸になることを嫌がる老人は問題視される。
お風呂に入らないなんて、問題のあるひとだ。
そうなってしまう。
長生きの時代だから、自宅で自然に老いて自然に死ぬことが許されない。
老人でも学校ならぬデイサービスへ行き、やりたくないこともやることで、或いは人前で裸になって見せることで、社会性が保たれていると、周囲が安心している。
そんなふうに、なりたい人がいるだろうか。
なりたくなくても時がくればなってしまうよ?
そう、諦めることが受容?
答えはでない。
男鹿半島 金ヶ崎温泉
この近く、崖の下、海のすぐ脇に、温泉跡がある。
今でも、湯が沸いている。
この上にホテルがあり、その温泉の源泉がここなのである。
海が荒れていたら、波を被って見えなくなるだろう。
かつて営業時には、船で行くしかなかったと聞く。
確かに今のように道路が整備されていなかった時代は、この急峻な地形では各地域移動は船が主だった移動手段であっただろうと思う。
私は海と岩が好きなので、このような地形は、心が躍る。
今は通っているのかいないのかわからない、金ヶ崎、というバス停が、ここに降りる目印である。
茂みを除くと踏みあとがあるので、それに沿ってなんとなく降りていく。
途中、二手に分かれる。
右は、釣り人がかけたであろうロープが垂らしてあり、それをつたって降りていく道。
左はやや不安定な急な下りを降りていく道、夏場は草が茂って分かりづらい。
いずれ降りてしまえば、そこに温泉が湧いている。
浴槽の崩れた跡だけが、残されていて、湯溜まりは足を浸せるほどしかないのだが、それは確かにぷくぷくと湧き上がっている。
調べると、湧き出し口を掃除すると、かなり高温の湯が湧いてくるようだ。
足を湯に浸して眺める海岸線のダイナミックなこと、ここにテントをはり、素潜りでも楽しみたいところだ。
西海岸なので、夕日も美しいだろう。
黒曜石をみることができ、温泉も湧くことから火山帯であったのだろう。
この近くには、カンカネ洞という、海蝕洞窟があり、これも西に向かって、小さく窓を開けているので、夕日が差し込んだなら、一生忘れられないような、素晴らしい光景であろうと思われる。
この男鹿半島西海岸は他にも、大桟橋、大小の海蝕洞口、海に落ちる滝と、興味は尽きない。
歩きと泳ぎで移動してみたいところだ。
今年、時間を作ってやってみたい冒険だ。
荒川の花
電線がなかったら。尾瀬みたい。
東京の荒川河口口の、とある大雨の日のあとの、裏道。
荒川河口口の近くに、つい去年まで住んでいた。
この一帯には、さまざまな植物が、自生している。
さまざまな植物が、繁殖地を争って、盛衰を繰り返している。
息子がまだ小さいころは、野菊がちらほらあったのだが、大方、セイタカアワダチソウにでもその生きる場を奪われたのだろう、今ではみられない。
この時期に目立つ花として、ヒルザキツキミソウがある。
先日、その種を採りにいって、庭に蒔いておいたから、来年は咲くんじゃないかな。
また、近年、一部の場所をスイートピーが席巻している。
ハマエンドウかな、でも図鑑でみるとスイートピーらしいのだが。
マメ科の植物らしく凄まじい繁殖力で、一度一帯を刈り取られたことがあるのだが、一年で復活してしまった。
散歩がてら、花束を作るには華やかでよい花と思う。
これももう間もなく種ができるので、取りに行くつもりである。
このスイートピーの一帯の真中ほどに、アカシアの木があり、満開になる様は見事である。
また今年は確認していないが、このスイートピーの隣の一帯は、テリハノイバラの繫殖地である。
根を張り巡らし、地を這いめぐって、一本の木に巻き付いて咲き誇ったのは素晴らしい眺めであった。どこかの薔薇の専門店にでもきたかのような光景。
これも刈り取られてしまったので、これほどの光景はみられないにしても、あれほど強い植物がそう簡単に消えるとは思われず、おそらく今年の夏も咲くだろう。
グミの木を見つけ、実がなったらジャムにしようと楽しみにしていたのだが、熟れるまえに鳥たちがみんな食べてしまっていたのは本当に悔しかった。
とはいえ、このグミの木、鳥たちがその糞から芽吹かせたものに相違なく、であってみれば実を食す権利は当然、彼らのものか。
よもぎはどこにでもある。
天ぷらにしてよく食卓にだしたものだ。
他に食べられる代表的なものがハマダイコンで、これもどこにでもある。
おおきくなれば紫色の花を咲かせるが、そうなる前、冬の終わりころには大根そっくりのロゼットを作って地上にでており、この時が一番おいしい。
大根の葉と同じに料理すればいい。
他、大概のものは食べられるが、ハマダイコンのように美味しくはないんじゃないかと思う。
今年は、新しくキバナコスモスが、どこから種が飛んできたものか、ロックゲート脇に群生していた。ちょっと拝借して、今、窓辺を飾っている。
他にバーベナの野生種のようなものが逞しく茂り、金平糖草の黄色いようなものがかわいらしくポロポロと風に揺れている。これはヒルザキツキミソウと合わせて花束にすると豪華なものになる。
鳥たちが蒔いた種から、さくらの木が、とんでもないところに出ていたりもする。
湿気の多いところで、ニンジンの葉のようなものを見つけた。
まさかシャク?
さすがにそれはないか。
セリのような香りがする。
調べると、どうもヤブジラミというものらしい。
香りはいいのだが、名前で食べる気が失せてしまった。
都会の川辺である。
それでも探せばいろいろな自然があり、発見があり、驚きがある。
表通りより裏通り、なるべく川に近い藪の中が良いので、楽しめる人とそうでない人には分かれるかと思うが。
緊急事態宣言下、荒川裏道ツアーなんか、最高じゃないかと思う。
今日は荒川の花で可愛い窓辺ができた。
庭と祖母の思い出
初めて花を育てたのは、小学生の高学年の頃、コスモスであった。
思えば、どこで種を仕入れたんだろう?
玄関前の固い土に種をまく私に、日陰のそんなところでは育たないと、祖母に言われたのだが、祖母の庭は彼女の手掛けた花いっぱいで、他に植えられそうなところはもうなかった。
はたしてそれは、いかにもかよわい様子ではあったが、花を咲かせてくれたのだった。
コスモスが好きであった。
紅い花弁はビロードのように華やかで、ピンクや白の花弁はシルクのようにすべすべしてみえる。
中学に通うバスの通り道にコスモス畑があり、雪国のことで花が咲くころにはバスの窓はひといきれで白く曇る。
その白く曇ったガラスごしに見るコスモスはパステルカラーの絵のようにガラスを染め、中学の多感な私の心を別世界へと容易に誘った。
初めて覚えた花の名前はおそらく桔梗だ。
紫色に咲く花の名を祖母に問い、答えてくれたことを覚えている。
他には紫陽花、イチジクの木、つるバラと覚えている。
祖母は花と小鳥の好きな女性であった。
今、私は彼女と同じことをしているのだ。
花をみていると飽きない。
人の目にこんなにも美しいのは、昆虫にとって見やすいものが、たまたま人の目にも見目好い、ということのほか、稲がそうであるように、美しい花はそうすることで人に繁殖をさせているのかもしれない。
花の美しさ、というものはない。
美しい花がある、だけだ。
と書いたのは小林秀雄で、彼は、花というより、名匠がこれ以上ないというほど精緻なカットを施したダイヤモンドような美しい文章を書く。
今、私の庭ではたくさんの花が咲いていて、あんまりいろいろ植えたのでなにがなんだかわからなくなってしまっているのだが、目立つ花に、アネモネとポピーがある。
ポピーは、よく日焼けして健康そうな陽気な女の子のよう。
アネモネはというと、美しく我儘でいささか高慢な深窓の令嬢といった感じ。
大きな可憐な花の中心部は黒く、大きな瞳を思わせる。
可憐な花は、まるで毛皮のショールのような葉に囲まれて咲く。
また、アネモネは咲いている期間中、開いたり閉じたりするので、余計に擬人化してしまう。15時くらいになるとこの花は、閉じ始めるのだ。
晩夏になると咲く酔芙蓉が楽しみでならない。
いったいぜんたい、その美しさは何のためなのか。
芙蓉系のつぼみが好きだ、
ギュッと握られたような丸いつぼみ。
ほろりとほどけるように咲くさまは、薔薇のそれとはまた違って、美しい女性の破顔のよう。
カモミールの香りが好きなので、ラベンダーとともに相当数植えているが、育つ育つ、ワサワサと凄まじい繫殖力である。
香り高い植物はいい。
そっと撫でると、うっとりするような香りで応えてくれる。
今、祖母が生きていたら、この庭を見たら、喜んでくれただろう。
一緒に、何をどこに植えるか話し合って、そんな楽しみができただろう。
ごめんね、おばあちゃん。
わたしはいい子じゃなかった。
だけど、本当はあなたが好きだったし頼りにもしていたんだよ。
親子、の世代はあまりに飛んではいけない。
といったら、遅くにやっと子供を産む人には悪いのだが。
子供が十分に大人になり、さまざまのことが解ってくるとき、あまり世代が飛ぶと
親が亡くなっていることがある。
これは子には酷なことだ。
わたしはいま、息子の役にも立たないが、生きている、ということが務めである。
彼がもっと大人になるまでね。
私がこの世を去る時、この庭をみて、ああお母さんはいつも花を植えていたな、
そう思い出してくれるだろうか。
廊下と階段
家の中で、廊下が好き。
廊下は居室空間ではないから、都会のコピペマンションや戸建てでは省かれがちと思う。
また廊下は、住人・家族の間に距離を置いてしまうものとして、嫌う人もいると思う。
わたしには、この居室空間にならない、廊下と階段が大事なのである。
廊下は長ければ長いほど、曲がりくねっていればいるほど、好きなのだ。
個室を隔てるその空間あるおかげで、家の中で散歩している気分になれる。
といって、それほどの豪邸に住めるわけもないのだが、現在住んでいる家は、それなりの長さで廊下があり、各個室を分けている。
前の住まいはマンションであったが、長い廊下があり、廊下に窓のあるところが好きだった。
居室から居室へ、ドア一枚、壁一枚、というのはどうにも慣れない。
子供のころ、廊下と階段の拭き掃除が、自分の役割であったからかもしれない。
そして普段、人が居住しないそのちょっとした空間に、子供心になにか秘密があるような気がして、用もなしに歩き回ったり、していた。
ガラス張りの渡り廊下、なんて憧れてしまう。
現在の住まいには廊下の先に和室が隔ててあり、もともと離れであったのを廊下で繋いだと聞いている。
ああ、この廊下がガラス張りだったらなあ……
私は新築物件より、こうした中古物件が好きなのだ。
誰かが大事にして住んでいた家。
長い年月をかけないと出てこない、雰囲気。
廊下の色は、赤みを帯びた濃い茶色であり、磨くと艶々し、掃除のし甲斐がある。
この色は、同じ素材であっても新築では出てこないと思う。
ここに、お気に入りのアンティークショップでなにか飾り棚でも仕入れて置きたいと思っている。
元の造りが純和風であるため、純洋風な古典的なインテリアが良く似合う。
こういった組み合わせが出来るのも、元の家主の拘りのおかげであり、中古物件の良さだと思う。
吹き抜けの玄関は音が反響し、当初は戸惑ったものだ。
何代かの歴史を経て今、私たちが住んでいる。
古典的なものの持つ重厚さを花で飾り上げることを夢見て庭仕事にいそしむ訳だが、
この廊下とこの階段がなかったなら、あるいは無駄な玄関の吹き抜け空間がなかったなら、私がここに住むことはなかったと思う。
廊下には、何か秘密が潜んでいるのだ。
西丸震哉のこと
机上登山、というのが、西丸氏の本で初めて読んだものであった。
面白かった。
彼が、とても経験豊富な登山家であることもよく分かったし、地図を読み解くことができ、また、それによる目の付け所がにくせがあり、それが興味深かった。
尾瀬の一帯には、彼が命名の地名がたくさんあることも、知った。
有名なところで、岩塔ヶ原だろうか。
SNS上では都市伝説のように扱われている、ちょっと面白い所だ。
西丸氏が尾瀬に盛んに通っていたころは、この一帯に規制はなかったが、今では、立ち入り禁止区域が多くなり、冬季以外は、訪れることは、岩塔ヶ原も、できない。
岩塔ヶ原、カッパ山、スモウトリ田代、赤田代、たそがれ田代にかわたれ田代と、彼が名付けたものだ。
カッパ山などは、当時地図には記載されておらず、昭和も半ばになって彼が初登頂ということだったらしい。
山小屋作ろうよ、という著作がある。
これも面白い。
山小屋?そんな金なんかないよ、という人々の先を遮るようにかれが提案する最初の案は、なんとビニール傘を1本たてただけの、山小屋、であった。
そこから、ブルーシートを張るとか、畳半畳、一畳二畳と、作り方をトイレのことまで合わせて、懇切丁寧に記述してあった。
夢見て羨んでいても、何も手に入らないのである。
日本国領土でありながら、容易にはいけない北方領土。
択捉島に面白そうなところがあると知ったのも机上登山からだ。
私はこの一帯の2万5千分の1地形図を持っているが、それは本当に奇妙な地形である。
なだらかな斜面の山肌に、長さ1キロ高さ500メートルほどの、岩の盾がŁ字型に
ニョッキリ突き出している。
これはいったいなんなのか?
キムンポラ、というそうだ。
アイヌ語だろうと思って調べてみると、羽ばたく山、という意味であるらしい。
見てみたいなあと、憧れは募る。
羽ばたく山だなんて、壮大な光景なんだろうなあ。
鳥海山も、その名のとおりで、秋田県側から見るそれは、大きく羽を広げ海へ飛び立つようだが。
西丸氏は、もともと農水省の人で、41歳寿命説なんかが、一般的には有名な著作である。
そんなことを言う人だから、結婚はしても、子供は作らないと、決めていたそうだ。
奥さんは、彼の著作にひんぱんに登場してくる。
マミさんという。
新婚旅行はニューギニアの食人種地帯だったというからマミさんも相当だ。
彼が、マミさんのこと書く時、愛情が滲み出る。
そんなところも、彼の著作を読んでいて楽しいところだ。
地形図を眺めるのは楽しい。私は彼のようにそれを立体化して見、自在に山中を歩くことはできないが、なんだろうここ…そんな風に想像して楽しむことはできる。
そんな楽しみを西丸氏から、教わった。
星野道夫と熊のこと
彼の写真を初めて見たとき、これは動く映像ではないのか?と驚いた。
間違いなくそれは2次元の紙に印刷された、静止画なのだが。
どう見ても、彼の写真は動画なのだった。
この思いは、2度経験したことがある。
あと一人の写真家は、黒部川で有名な志水哲也の、夜明けの滝の写真である。
今にも冷たい水しぶきがかかってきそうな、登山家ならではの臨場感溢れる素晴らしい一枚だ。
若き日の憧れの人でもあった。彼の単独での黒部川探索記を、どんな思いで当時読んでいたことか。
星野道夫の著作の短編に、熊よ、というものがある。
これを読んだとき、ああ同じ感情だ、と心震えた。
普段の生活のなかで、ふと熊を思う。
今この時、熊は木をまたいでいたりするんだろうな、と思い愛おしくなる。
私は、全く同じ感情を持っていた。
いつかテレビで見た、山肌を一頭の熊が登っていく場面、頭から離れなかった。
そうして同じようにふと、ああ熊はあんなふうに一頭で、今も山を歩いているんだな、そう思っては感慨にふけることが、なぜか多かったのだった。
それは、孤独、ということすらおそらく知らずにただ、己の命を生きている。
ただ、今を生きている。
与えられた命の営みを、淡々と、行っているに過ぎないんだろう。
それは今日、私の大事な花をむさぼり食っていた芋虫だって同じことだが、大きさ、というものが、あるいは、眼差し、といったものが、やはり人間にある感傷を持たせる、ということだろう。
芋虫の眼差しは残念ながら見えない。
初めて谷川岳に登ったのは9月だった。
小雨が降り、谷沿いの道は小川のようだったが、なにしろ怖いということを知らない。
勢いに任せて登っていく。
辺りは霧が立ち込め、真っ白。
自分の手元がやっと見えるかといった具合だった。
水音が聞こえてきた。
聞こえる方に歩いていく。
どうやらマチガ沢の滝のようだ。
それはすぐそこに在るのだが、白い霧で全く見えない。
その時、言葉で言い表せない不思議な感情を味わった。後にも先にも、あのような感情は知らない。
これだこれだ、これなんだ私がほしいのは。
そう思ったことだけはしっかりと覚えている。
その場面のなにが、欲しかった、のか私には今もってわからない。
ただ私と、霧と、滝と、それだけが、そこには在った。
星野道夫がカリブーの群れの中に佇む時、それに似た、そしてもっと深遠な、
永遠な感慨に浸っていたのだろうか。