宗教のこと
知り合いに、70の後半を迎えてお坊様になった方がいる。
お子さんもとうに出家なさっているとのことで、その影響もあったのだろう。
わたしにクロスバイクを譲ってくれた方だった。
それだけに行動力がありタフで、人生を謳歌していた方であった。
今はお坊様として謳歌しておられるだろう。
どんな形にせよ、人は自身の欲によってその行く先を決めている。
わたしはストイックだといわれることが多いが、ストイックになるのもわたしの欲からだ。そうでありたいからだ。
人生の、始まりのころ、10代20代と、苦しい時が続いた。
わたしは両親に恵まれず、混乱した子供時代を過ごしたし、その影響を引きずって20代は、出家することをまじめに考えていた、そんな若き日であった。
本来ならば違うよね、最も楽しい、時だよね。
でも、その頃のことを、悔んだり惜しんだりする気持ちは全くない。
だって、その時期が、わたしには必要だったのだから。
荒れ狂う欲望や、自己否定、自信がなく、常に奔流されていた。
そのころから読書は好きであったから、思い悩んでは興味ある本を読み漁り、生きる道を探していた。
出家しようと思った。
生きることが苦しかった。
何かにすっかり身を任せてしまえば、思い悩むこともなくなるのだろう。
ふと気が付く。
自身を無にする、ということと、何かに帰依する、ということは異なっていると。
帰依するのでは、意志が必要だ。
それすら、わたしには、余計な感情であったのだ。
ルノアールの絵と、クリムトの絵では全く、印象が違っている、と一見思う。
ユージェニーとサマディ嬢の絵では、同じ若い美しい女性を描いたものであっても
受ける印象は異なる。
しかし、一見、であると、わたしは思った。
同じだと、思ったのだった。
クリムトとルノワールは入口が違うだけで、同じところへ行きついている。
そう思えた。
荒れ狂う欲望に身を任せてみようと思ったのはそういう考えがもとにあったからだとも思う。
帰依でない、無になるのだ。
無になって、時が連れていくどこかへ、ただ行こう、そんなふうに考えていたと思う。
大人になって、あることから自分が発達障害であることを医師から知らされた時は、
意外にも安堵したものだ。
自分が感じて苦しんできた、社会との違和感には、そういう理由がきちんとあったのだと分かったからだ。
してみれば、そのような概念のなかった子供時代、不健全な家庭のもとで、よく頑張ったではないか。
自分を誉めよう。誉めたっていい。
仏教は、優れた、思想、であると思う。
仏教だけでなく、世界中の宗教のほとんどが、ひとつの優れた思想であると思う。
ただ、私はそのどれにも、帰依しない。
自然神を尊ぶ気持ちはある。
わたしだって自然の一部だもの。おてんとうさまはありがたい。
ただ、わたしにとって、宗教・思想、というものは、例えていうならば酸素ボンベのようなものなのだ。
自分のこころ、という広大で底知れない世界へ飛び込んでいくときの、道具の一つ。
こころの中には、宇宙の果てまで、潜んでさえいる。
どうして人は、到底みることの叶わないその果てについて考えるのだろう。
わたしのこころは脳の中にあるのだろうが、脳が脳について、なぜ考えるのだろう?
不思議なことばかりだ。
脳が自らを考え、解き明かしていくのならば、そうさせるのはなぜなのだろう?
だから、わたしは酸素ボンベをもって、大海へ潜行していくのだ。