一人静

一人静かに過ごす時間が好きだ。

嬌声やたくさんの話し声、そんな中にいると、だんだん自分から自分が逃げていってしまう。抜け殻がぼんやりと、騒音の中に佇む、ということになってしまう。

面白い話もできなし、やり取りもできない。

だって、意味のない冗談のやりとりなんて…する意味がわからない。

発達障害だから、ということもあるかと思うが。

だから、忘年会とか歓送迎会とか新年会とか、一切出ない。

いろいろ陰口もあるかと思われるが気にしない。

人の顔色を窺って意に沿わないことをし、困るのは自分なんだから。

そんな場に出ると、回復するのに3日はかかってしまう。

頭から離れない騒音、面白い冗談の言えない自分へのちょっとした揶揄、そんなものが私の心を疲弊させ、自分を肯定することができるまでに時間がかかるのだ。

 

かといって陰気なわけではない、とは思う。

物事には、我ながらこりゃ大変だと冷や汗をかきかきこの人(自分)の行動についていくのがやっと、というほど積極的だ。

 

わたしは世間話、というものが出来ないのである。

だから、本当に、とくに女性の中では困ることが多い。

解る人は解ると思う。

 

友人から、君はコメンテーターだね、といわれたことがあるが、つまり、局面で気の利いたことは言えているんだろう。

 

寂しいと、思ったことがない。

とは言わないが、おそらく数えるほどしかない。

ひまだな、ということはある(*`艸´)ウシシシが、それもほとんどないに近い。

 

ぼんやりしているのが好きだからだ。

とめどない考え、思い、そんなものの中に浸っている時が好きだから。

 

人間嫌いとは言わない。嫌ったって自分も人間だもの。

人間て、信用できない。

しかし、愛すべき存在、かな。

 

鳥の声、葉擦れの音、遠くから聞こえる子供の笑い声……

 

静かに、していたいのだ。

ただ、一人静かに。

 

 

 

関白宣言

さだまさしに、関白宣言、という歌がある。

大好きだ。

しかし、発表した当初からではあったが今でも、一部の女性には甚だ不評らしい。

女性差別だ!ということらしい。

 

バカじゃないか、と私は思うし、実際バカなんだと思う。

こんなバカと付き合う男というのはどんなツラだろうか、と変な興味が沸く。

バカというより、感性が、貧相なのだ。

そんな貧相な女も蓼食うなんとかで、男は付くんだろうから、見たいじゃないか。

 

10代の終わりころだったろうか、男女雇用機会均等法というのが制定され、女性の立場も変わっていった。それは良かったのだが、そのころ変なCMがあった。

若い女性が、男の職業のさまざまなものの格好の真似をし、女も男と同じようにできると、謳ったものであった。

10代の私に、そのセリフはずいぶんと浅薄なものに聞こえた。

 

なんで男の真似をしなきゃならんのか?

女性が女性のままでいてはいけないんだろうか。

男の真似をするだけだったら、自ら、男に劣っていると、認めていることにならないか。

 

女性も男性も、LGBTも、等しくこの世に生を受け、社会に等しく義務を負い、

権利を持ち、生きている。

そのままではいけないんだろうか。

 

世の中、欺瞞に満ちている。

道のない山中に道を造り橋を造る、となった時、その建設現場に、鉄筋を背負って働く女性はほぼいない。

いたところで、他の男性の足手まといになるだけだ。

力仕事を20年やってもキャリアウーマンとは言われないのに、綺麗なオフィスで机に張り付き銭勘定でもしていれば、たとえ一年めでもキャリアウーマンなのだ。

 

おかしな話だなあ。笑っちゃう。

 

さだまさしの関白宣言は妻を愛する歌である。

そして妻が夫を愛する歌でもある。

差別ってナニが?

俺より早く寝るなってこと?

そんなの、始めからわかってる、寝たって怒られないよ*1

浮気はするかもって?

したらフルボッコにしてやるんだから。

互いにわかっていて、男はわがままを言ってみて、女は許してみせて、初々しい恋愛をしているだけである。

こんなルールは微笑ましい。

 

私は女性のままでいる。

男の真似などできないし、する気も全くない。

張り合う気持ちもない。

男性に勝てないもん。

引っ越しセンターの人たち、ものすごい重たい荷物、軽々運んでた。

 

本当に仕事ができて、感性豊かな女性は、男性に勝つの勝たないのと考えてはいないと思う。ただ、自身の務めを、全力で果たしているだけだと思う。

そんな女性は魅力的だ。

 

銭勘定もデザインもプログラムも投資も解体も建設も、おいしい料理を家族のために作ることも等しく、人間の営みではないのか。

 

株投資は面白いが、息子のパンツをたたむ時だって幸せだよ。

 

たいした差はないね。

 

どれもこれも、私の営みなんだからね。

 

だからさ、女性の皆さん、つまんないことに怒るのやめよう。

つまんない男が寄ってくるよ。

俺より先に逝ってはいけない、そういってくれる男性が離れていくよ。

 

 

*1:´∀`

蝶々ひらひら

庭の花が咲き始めると、蝶々がやってくるようになった。

ひらひらと綺麗なものだ。

花が飛んでいるよう。

 

毎日のようにやってくる紋白蝶のお気に入りは、黄色いマーガレット。

ここ数日は、ビオラにも止まっている。

 

今日は一日、結構な雨降りだった。

蝶々は、どこかの軒先?大きな葉の裏?

雨宿りをしていることだろう。

 

だけど、おなかが空くだろうな。

小さな体、蜜を貯めこむこともできなかろう。

3日も雨だったら……死んじゃうんじゃないかな。

 

今この時も、蝶々さんはおなかを空かして、独りぼっちで、羽を濡らして、耐えているんだろうな。

明日は晴れるといいね。

そしたらまた、おなか一杯、蜜を吸ってください。

たくさん咲かせて待っているから。

見えないものは信じない

正確には、識ることが出来ないものは信じない。

 

愛は見えないではないか?

見えるよ、眼差しに見えるじゃないか。

識ることできるじゃないか。

 

スピリチュアル?

なんのことかさっぱり解らない。日本語で言ってくれ。

 

簡単な例を言うと、幽霊、は信じてない。

見たことがないから。

誰それさんは見たかもしれないが、私は私が見ない限りは信じない。

 

幽霊なんて。

命、ってそんなもの?

自我がそれほどに確かなものなら、生きるとは果てなき煉獄ではないのか?

命、ってそんなもの?

 

私にとって命とは、例えば大海に現れる鯨の背のようなものだ。

 

人間の自我とは関係なく、それは現れたり消えたり、している、と考えている。

大きな何かの一部、時折切り離されて、一個の命という形になって現れる。

バクテリアも象も人も薔薇の花も。きっと宇宙も。

 

量子力学が見せてくるこの世界、まことに不思議で不可解で、理解することはできない。

人間の直感や経験から、それはかけ離れすぎている。

そうは言っても、こうしてパソコンやスマートフォンを使えるのはその理解できない量子力学のおかげなのだ。

わたしたちはそれを、ミクロの世界でみることは出来ないが、マクロの世界で識ることはできる。

だれでも、識ることや学ぶことはできるのだ。

 

しかし今、私が幽霊を見たと言って、何がそれを証明するのだろう。

それは私個人の経験であって、普遍的な事実ではない。

私個人の、感情に過ぎないのだ。

 

占いはロマンティックだ。

恋をした時などはとくにね。

しかしそれはあくまで、心の遊びである。

自分の行く先を占いなどに頼らない。

どこの誰かもしらない、誰かに、過去のこと未来のこと、指図されてたまるものか。

 

人は容易に騙される。

あげく金銭をとられて被害者ぶっても、笑われるだけだよ?

 

人に頼る気持ちを、自分に頼ってみよう。

必要なものは見える。

必要なものは聞こえる。

必要なものは感じることができる、識ることができる。

それがすべてであると、私は考えている。

もし、本当に、見えないもの識ることのできないものに何か真実があるのだとしても、

それを自身で見ること識ることができないのだとしたら、それが私の実力なのだ。

金銭などと引き換えに教えてもらう?ズルして生きるのは信条に合わない、いらない。

 

だからさて、ここに経験と知識によって限りなく不確定要素を減らすことのできる

投資ゲームが容易されている。

識るのだ。学習を怠けてはいけない。

わたしの頭にはスーパーコンピュータが搭載されているもん。多少型落ちでも。

使わなきゃ損だ。

 

真実は見えるんだ。他者と共有できるものなんだ。

全て。

宗教のこと

知り合いに、70の後半を迎えてお坊様になった方がいる。

お子さんもとうに出家なさっているとのことで、その影響もあったのだろう。

わたしにクロスバイクを譲ってくれた方だった。

それだけに行動力がありタフで、人生を謳歌していた方であった。

今はお坊様として謳歌しておられるだろう。

どんな形にせよ、人は自身の欲によってその行く先を決めている。

 

わたしはストイックだといわれることが多いが、ストイックになるのもわたしの欲からだ。そうでありたいからだ。

 

人生の、始まりのころ、10代20代と、苦しい時が続いた。

わたしは両親に恵まれず、混乱した子供時代を過ごしたし、その影響を引きずって20代は、出家することをまじめに考えていた、そんな若き日であった。

本来ならば違うよね、最も楽しい、時だよね。

でも、その頃のことを、悔んだり惜しんだりする気持ちは全くない。

だって、その時期が、わたしには必要だったのだから。

 

荒れ狂う欲望や、自己否定、自信がなく、常に奔流されていた。

そのころから読書は好きであったから、思い悩んでは興味ある本を読み漁り、生きる道を探していた。

出家しようと思った。

生きることが苦しかった。

何かにすっかり身を任せてしまえば、思い悩むこともなくなるのだろう。

 

ふと気が付く。

自身を無にする、ということと、何かに帰依する、ということは異なっていると。

帰依するのでは、意志が必要だ。

それすら、わたしには、余計な感情であったのだ。

 

ルノアールの絵と、クリムトの絵では全く、印象が違っている、と一見思う。

ユージェニーとサマディ嬢の絵では、同じ若い美しい女性を描いたものであっても

受ける印象は異なる。

しかし、一見、であると、わたしは思った。

同じだと、思ったのだった。

クリムトルノワールは入口が違うだけで、同じところへ行きついている。

そう思えた。

 

荒れ狂う欲望に身を任せてみようと思ったのはそういう考えがもとにあったからだとも思う。

帰依でない、無になるのだ。

無になって、時が連れていくどこかへ、ただ行こう、そんなふうに考えていたと思う。

 

大人になって、あることから自分が発達障害であることを医師から知らされた時は、

意外にも安堵したものだ。

自分が感じて苦しんできた、社会との違和感には、そういう理由がきちんとあったのだと分かったからだ。

してみれば、そのような概念のなかった子供時代、不健全な家庭のもとで、よく頑張ったではないか。

自分を誉めよう。誉めたっていい。

 

仏教は、優れた、思想、であると思う。

仏教だけでなく、世界中の宗教のほとんどが、ひとつの優れた思想であると思う。

 

ただ、私はそのどれにも、帰依しない。

自然神を尊ぶ気持ちはある。

わたしだって自然の一部だもの。おてんとうさまはありがたい。

 

ただ、わたしにとって、宗教・思想、というものは、例えていうならば酸素ボンベのようなものなのだ。

自分のこころ、という広大で底知れない世界へ飛び込んでいくときの、道具の一つ。

 

こころの中には、宇宙の果てまで、潜んでさえいる。

どうして人は、到底みることの叶わないその果てについて考えるのだろう。

わたしのこころは脳の中にあるのだろうが、脳が脳について、なぜ考えるのだろう?

不思議なことばかりだ。

脳が自らを考え、解き明かしていくのならば、そうさせるのはなぜなのだろう?

 

だから、わたしは酸素ボンベをもって、大海へ潜行していくのだ。

 

 

 

 

 

それは本当に出来ないことか?

90歳の、バリバリのヨガインストラクターがいる。

本当にバリバリ、綺麗な体の線、きびきびとして、しなやかな体の動き。

 

言い訳はできない。

それとも彼女はお金持ちでお金かけているから?

生まれつき丈夫だから?

お金は体を柔らかくはしてくれないよ。

生まれつき丈夫は人はたくさんいるよ。

 

私は専業主婦ではない。といって専業主婦を否定するつもりは全くない、それはまた別な機会に話そう。

愛する二人の息子であり、今でも愛する人の妻であり、仕事を続けてきた。

忙しいよね。

朝起きると、ああ奴隷生活の始まりだ、なんて。

 

しかし、そんな生活の中でも、ランニングや水泳を楽しみ、ハイキングを楽しみ、スキンダイビングやらなにやらを楽しんできた。

夫の理解あればこそではあった。

子供が生まれてから、自分の誕生日は何もいらないから一日自由にしてほしい、と頼んだ。その一日を主にハイキングに使っていた。

その代わり、家事に手抜きはしなかったし、留守にする日にち分の、食事を作って出かけていたから、かえって夫は感心してくれた。

山頂から子供たちに電話をかけると、お母さんすごいねーと無邪気な声が愛おしかった。

 

私のことを羨む人たちがいる。

時間があるから、お金があるから?

どっちもないよ。

あるのは、ただ憧れだ。

見知らぬ世界への憧れ、経験したことのない感情への憧れ。

エンジンは私の心臓で、燃料はお米だもの、お金なんかいらないよ。

交通費?

貯めなさいよ。ちょっとずつ。

 

年齢?そうだ、それこそが、言い訳だ。

こんな歳だから、出来るわけない。

でもわたしはやったよ。

やればできるんだよ。なんだって。

 

誰も連れてってくれないもの?

だったら、家にいればいいではないか。

かぼちゃの馬車でも待っていればいい。

 

そんな人たちにかまけていられない。

蹴り飛ばして先へ行くのだ。

憧れは尽きない。

 

歳だから。

お金がないから。

体力がないから。

どうせ私なんて。

そう考える前に、本当にそうだろうか?言い訳ではないのか?本当に自分の手足は動かないのか、よくよく考えてみることだ。

テレビを観ている時間にストレッチをすることさえ、出来ないというのだろうか?

 

お金がない?

ならば、近所の川や公園に出かけてみるといい。

食べられる雑草がいくらでもある、知識さえあれば採集して楽しむことができる。

ちなみに知識は図書館で借りる本から得られるから、無料だ。

可愛い花が沢山咲いていて、豪華な花束さえ手に入る。

 

言い訳をして人を羨む、なんてもったいないことをするのかと思う。

動かせば動く体を動かさないなんて、勿体なさすぎて、見るのもいや。

 

わたしの心が使えるのはわたしの身体しかないし、わたしの身体が使えるのはわたしの心しかないのだ。

ふたつがタッグを組んで、憧れに飛び込んでいく。

恐怖・驚き・喜び、ありとあらゆる感情に満たされていく。

 

僕は、思い出よりも憧れを愛する。

登山家のガストン・レビュファの名言。

 

憧れを愛そう。

 

 

 

 

 

 

マリリン・モンローのこと

まだ10代のころだ。

雑誌を見ていたら、明るい茶色の長い髪・真っ赤な唇の、美しい少女があどけなく太陽の下で笑っている写真が目に飛び込んできた。

マリリン・モンローと書いてある。

マリリン・モンローって、ショートヘアでスカートがまくれるあのマリリン・モンロー??

彼女がモデルとしてデビューしたころ、本名ノーマ・ジーンの、10代のころの写真であった。

こんな可愛い人だったの、俄然、興味が沸き、記事を読んでいった。

 

以来、私にとって彼女は、思えば心が涙で溢れるような、特別な存在となった。

 

彼女が、痛ましくならなかった。

ただ、生きたかっだけだろうに。

男性はだれしも言うだろう、自分なら幸せにできる、と。

彼女も解からなかったかもしれないが、男性は彼女を幸せにはできない。

異性は、愛情に条件を突きつける存在でもあるからだ。

 

親、というのは、それがまっとうな人間であればだが、有難いものと思わなければならない。

普通に育った人には解らないだろうが、条件なしの愛情は親からしか受けられないものなのだ。

これがなかったら、と想像できるだろうか。

自分が生きていることを、無条件に悦びとしてくれる人がこの世にいないという孤独を理解できるだろうか。

 

友人、同僚、上司、恋人・伴侶、すべては自分が条件にかなっている場合のみ、その信頼関係は成立するのであって、ただではない。

だからこそ、人間が成長していくのだが、そもそも存在自体を認めてもらえない人間の場合、成長しようにも根が張れない。

頑張っても、すぐ風に飛ばされてしまうのだ。

 

マリリン・モンローのように、美しく魅力的であれば、ここに搾取という悲劇も付きまとう。

保護者のいない美しい女性、これは世間にとっては、男性にとっては、いかにも都合のよい存在だ。

保護者のいない男子は労働を、女子はその性を、搾取される。

一般の人は想像できないだろうが、世間とはそういうものだ。

保護者がいないのだから、どこからも文句はでない。

子供なんて弱い存在だ、大人の欲望の捌け口に、容易にされてしまう。

子供は口をつぐむよりほかない。

だって誰にも信用してもらえないし、何よりそんな自分が恥ずかしいから。

 

彼女の写真を見ていくと、痩せたり太ったりが繰り返されていることが見て取れる。

不安定だっただろう心が察せられる。

私は、着飾った華やかないかにも映画女優といった写真でなく、プライベートな彼女を写した、サム・ショー、というカメラマンの撮った写真が好きだ。

彼が写すマリリンは、素朴で自由で、ねえサム!今日は寒いわね!そんな屈託のないおしゃべりをしているよう。

窓辺で、肘をつきカメラに微笑む写真は、寂しい。

何かを諦めているような微笑み。

彼女が諦めたなにかを、サム・ショーは理解し、写し取ったように見える

 

暗殺だとか、さまざまな憶測のある死だが、私はただの事故死であったと思う。

誤って、あるいは朦朧として、薬を飲みすぎたのだろうと思う。

自死の意志はさほどには、ぼんやりとはあったかもしれないが、無かった、と思う。

 

彼女がどこかで出産をし、母親になれていたなら、先の人生があっただろう。

搾取することで称賛という愛情、を返す世間や異性からの、刹那な愛を求めなくとも、生きる道が開けたのではないだろうか。

 

彼女について書かれた本はいくらもあるが、私はグロリア・スタイネムという女性ジャーナリスト(潜入プレイボーイクラブなどの記事を書いた)の本が一番好きだ。

男性の書いたものは仕方がないが、妄想が付きまとう。

マリリン・モンローのことは、女性として見ていたのでは到底理解はできない。

ただ、一人の人間としてみることで、彼女が望んでいた、到底手に入れられなかった、存在の許可への渇望が、痛ましく理解できてくるのである。

 

彼女のような少年、少女は、今日でも世界中どこにでも、居るのだ。

 

存在の許可を欲して、さまよう。

容易には得られない。

大きなハンデだ。

 

忘れよう。

ないものはない。

 

それが自分の人生なのだ。

受け入れて、覚悟を決めて、大きなハンデを背負って行こう。