マリリン・モンローのこと

まだ10代のころだ。

雑誌を見ていたら、明るい茶色の長い髪・真っ赤な唇の、美しい少女があどけなく太陽の下で笑っている写真が目に飛び込んできた。

マリリン・モンローと書いてある。

マリリン・モンローって、ショートヘアでスカートがまくれるあのマリリン・モンロー??

彼女がモデルとしてデビューしたころ、本名ノーマ・ジーンの、10代のころの写真であった。

こんな可愛い人だったの、俄然、興味が沸き、記事を読んでいった。

 

以来、私にとって彼女は、思えば心が涙で溢れるような、特別な存在となった。

 

彼女が、痛ましくならなかった。

ただ、生きたかっだけだろうに。

男性はだれしも言うだろう、自分なら幸せにできる、と。

彼女も解からなかったかもしれないが、男性は彼女を幸せにはできない。

異性は、愛情に条件を突きつける存在でもあるからだ。

 

親、というのは、それがまっとうな人間であればだが、有難いものと思わなければならない。

普通に育った人には解らないだろうが、条件なしの愛情は親からしか受けられないものなのだ。

これがなかったら、と想像できるだろうか。

自分が生きていることを、無条件に悦びとしてくれる人がこの世にいないという孤独を理解できるだろうか。

 

友人、同僚、上司、恋人・伴侶、すべては自分が条件にかなっている場合のみ、その信頼関係は成立するのであって、ただではない。

だからこそ、人間が成長していくのだが、そもそも存在自体を認めてもらえない人間の場合、成長しようにも根が張れない。

頑張っても、すぐ風に飛ばされてしまうのだ。

 

マリリン・モンローのように、美しく魅力的であれば、ここに搾取という悲劇も付きまとう。

保護者のいない美しい女性、これは世間にとっては、男性にとっては、いかにも都合のよい存在だ。

保護者のいない男子は労働を、女子はその性を、搾取される。

一般の人は想像できないだろうが、世間とはそういうものだ。

保護者がいないのだから、どこからも文句はでない。

子供なんて弱い存在だ、大人の欲望の捌け口に、容易にされてしまう。

子供は口をつぐむよりほかない。

だって誰にも信用してもらえないし、何よりそんな自分が恥ずかしいから。

 

彼女の写真を見ていくと、痩せたり太ったりが繰り返されていることが見て取れる。

不安定だっただろう心が察せられる。

私は、着飾った華やかないかにも映画女優といった写真でなく、プライベートな彼女を写した、サム・ショー、というカメラマンの撮った写真が好きだ。

彼が写すマリリンは、素朴で自由で、ねえサム!今日は寒いわね!そんな屈託のないおしゃべりをしているよう。

窓辺で、肘をつきカメラに微笑む写真は、寂しい。

何かを諦めているような微笑み。

彼女が諦めたなにかを、サム・ショーは理解し、写し取ったように見える

 

暗殺だとか、さまざまな憶測のある死だが、私はただの事故死であったと思う。

誤って、あるいは朦朧として、薬を飲みすぎたのだろうと思う。

自死の意志はさほどには、ぼんやりとはあったかもしれないが、無かった、と思う。

 

彼女がどこかで出産をし、母親になれていたなら、先の人生があっただろう。

搾取することで称賛という愛情、を返す世間や異性からの、刹那な愛を求めなくとも、生きる道が開けたのではないだろうか。

 

彼女について書かれた本はいくらもあるが、私はグロリア・スタイネムという女性ジャーナリスト(潜入プレイボーイクラブなどの記事を書いた)の本が一番好きだ。

男性の書いたものは仕方がないが、妄想が付きまとう。

マリリン・モンローのことは、女性として見ていたのでは到底理解はできない。

ただ、一人の人間としてみることで、彼女が望んでいた、到底手に入れられなかった、存在の許可への渇望が、痛ましく理解できてくるのである。

 

彼女のような少年、少女は、今日でも世界中どこにでも、居るのだ。

 

存在の許可を欲して、さまよう。

容易には得られない。

大きなハンデだ。

 

忘れよう。

ないものはない。

 

それが自分の人生なのだ。

受け入れて、覚悟を決めて、大きなハンデを背負って行こう。