人の生き死に
世の中、新型コロナ感染症で、窮屈な生活を強いられている。
私は基礎疾患もないし、重症化する年齢からぎりぎり離れてはいる。
しかし、いつ罹患してもおかしくはないし、重症化してもおかしくはない年齢でもある。
予防している。普通に。
できることはしている。
マスク、手洗い、うがい……
もし、それで罹患し、死んだのなら、それは私の運命だ。
あえて言うのである、それが運命、さだめなのだと。
人間も動物である。
一個体として、その時その時、どれだけ生きる力、実力があるか、それに見合った寿命しかないではないか。
確かに社会性を持つ動物として、共助もあれば公助もあるだろう。
しかし、それに頼りきって生きる命とはなんなのか、私にはわからない。
人間はいつか、何らかの形でこの世を去るのである。
それが当たり前ではないか。
そうやって新しい命に、資源を譲っていくのだ。
一人一人の命は尊い。
皆、誰かを愛し、愛されている。
互いが互いに失いたくない存在だ。
それであってなお、私は思うのである。
一人の人間が己の命に執着することへの違和感を。はっきり言えば高齢者が、だ。
私は、信長が人生50年と謡った年を過ぎている。
そして、やるだけやった、という感慨も持っている。
例えば80歳が聞けば生意気かもしれないが、人にはそれぞれ背景があるのである。
この世に未練はない。正直、無い。
ただ、息子が年若すぎ、父親を亡くしたばかりであってみれば、母親まで今亡くすのは酷であるから、彼がすっかり成熟する姿を見届けるのは、務めとは、思っている。
寿命がくれば逝くだけのことだ。
私、にしがみついたところで、私、などこの世の2次元映像のようなものに過ぎない。
自我、というものの裏打ちのなさ、あてにならないこと夥しい。
失う、と分かっていて、私たちは何かを愛するのである。
消える、と分かっていて私たちは生きるのである。
そこに、尊厳、というものがあるのだと、私は思っている。