さくらのこと

花、というものはだいたいにおいて儚いものであるけれど、さくらの花となるとその代表的なものだろう。

 

さくら花

今日こそかくも匂えども

ああ頼み難し

明日の夜のこと

 

なんていう在原業平のうたが思い出される

花に女性の心を、あるいはその逆を、うたったものだ。

 

春の夜が好きだ。

かすかに匂うさくらの花の下を、花明かりに惑わされながら歩く時。

どこまでもどこまでも続いていくように見えて、徐々に視覚以外の感覚が奪われていく。気づけば空が見え、我に戻る瞬間は哀しい。

 

さくらには、山桜・彼岸桜・大島桜と三種、そして染井吉野が加わって、4種、だろうか、ある。

どれもそれぞれの良さがある。

 

山桜は、楚々として枝ぶりも品があり、主に関西では楓の木と植えられることが多いと聞くが、確かに楓の葉の中に、風に揺られて見え隠れする山桜の花は美しい。

まるでホログラフィのようだ。

古来、日本で、はな、といえばさくらのことであり、富士山の神、コノハナノサクヤヒメというのはさくらのこと。

 

彼岸桜は、最も長く生きるもので、日本のさくらの巨樹はこの彼岸桜だ。

枝垂桜はこの仲間である。

三春の滝桜など有名なさくらがたくさんある。

宮崎の山に中に、それはそれは大きな彼岸桜が見つかったと、以前に聞いたことがある。一度見に行ってみたいものだ。

 

大島桜は、気がふれたのではないか、というほど、凄まじい量の花を付ける。

遠くから見ると、雪でも降ったのかと思うほどである。

また香り高く、葉は桜餅に使われている。

 

染井吉野は、彼岸桜の葉より先に花が咲く、大島桜の多量ににつける花、の長所を持って生まれたさくらで、自然なのか作ったのかわからないが、江戸の時代に染井村(現豊島区)で売られ始めたものが普及し現在に至っているらしい。

さてこの染井吉野である。

さくらの愛好家には嫌われがちのように聞く。

下品である、とのこと。

たしかに、山桜のような気品はない。

しかし、染井吉野に罪はないではないか。

このさくらは、わたしには、遊女のように思えて哀れだ。

丈夫で花量が多く短期間で育つ、ということから街中に植えられているが、それだけにあまり大事にもされない。短命でも、次が育ってくれば植えなおせばいい、ということか。

それだのに、染井吉野はこれでもかこれでもかというほど花を付ける。

上ばかり見ないで、根元も木肌も見てほしい。

え、こんなところにまで花を付けるの?!と、痛々しくもけなげだ。

このけなげな姿が私は好きなのである。

ポロンと、根元に咲く花、どうか踏まないで。

街の染井吉野のほとんどはほうき病という病にかかっているが、それでも毎年、

精一杯、咲く。

どうか嫌わないで。

 

私の好きなさくらのうた

 

深山木の

梢ともみえざりし

さくらは花にあらわれにけり

 

源頼政のうた、武士らしい清廉な、さくらへの賛美のうたとして、私の記憶に残っている。

ただの雑木と思っていたのに、美しい花を咲かせるのでさくらと分かったというような意味。

 

春、晴れ渡る日に飛行機に乗ってみよう。

私は東北への便からの景色しかわからないが、下を眺めれば、山はいたる所、さくら色である。誰も来ないであろう山中、山桜が咲いている。

日本はさくらの国なのだなと思う。

 

もろともに

哀れと思え山桜

はなより他にしるひともなし  行尊

 

さくらの下は、孤独が似合う。